今日の話は元祖1式からちょっと離れて、認識の変更の話です。
この前ベッドでぼーっとしてたら、いきなりそういうこと?!って気がついて、びっくりしてメモみたいにして書きました。(前回のブログ)
いかんせん周りにスピ友人おろか普通の友人も少ない私は、確かめることも叶わず、これがそうなのかはさっぱり分からないんですけど……。
私が私だと思っていたものは、私じゃなかったっていうことと、今この現実が私だったってことなんですね。ずっと私がどうにかしなきゃ、私がって思ってたけど、ただの反応だったんです。
見方の問題なのかな。だからルビンの壺。エゴとか思考を私だと思うか、現実や世界を私だと思うかって違い。世界が私なら、願望を叶えるって行為すら必要なくなる。勿論、思考を私だと思って願望を叶える旅に出たっていい。だから願望実現ゲーム。苦しくないのは世界が私だと思う方かもしれませんが。認識変更した方がよく言われる、人生に深刻さがなくなったていうのは、こういうところこら来てるのかもしれません。
思考とかエゴっていうのは、スポットライトみたいな役割? 世界をピンポイントで照らすみたいな。そこしか見えません!みたいな。
このことに気づいたからって別に思考目線で見て何か願望が急に現象化したわけじゃないし、世界が私なら別にもう願望叶えなくてもいいか、頑張るの怠いしみたいな気分です。世界に任せるしかねーな、みたいな。思考目線だとまた叶ったり、叶わなかったりを繰り返すのかな?
認識変更ってしたところで大したことないって言われる方もいらっしゃって不思議だなって思ってたけど、なんとなく分かりました。
思考目線で何やっても叶ったり叶わなかったりするんだからメソッドも無駄で、世界に任せて無思考でいいやつて思うと、結局元祖1式に戻ってくるんですね~。
無思考はあり方ってこういうこと???
果たして本当にこれ認識の変更なのかな???うーん……。どなたかご存知でしたら、教えて下さい。